さいきん大勢の人前で話す機会が時々ある。滑り出しはいつも挙動不審だけど、途中でうまく笑いでもとれると、ふっと気が通るというか、場の呼吸が転換する。なんだろ、ぱっと灯りが点くような、あの感じは。

体操でも呼吸法でも、行った後、穏やかで前向きな気分になれるようなら、それは自分にあったボディワークなんだと思う。おれは呼吸器を上手くゆるめることができると、如実にそんな感じがする。頭がひんやりして、お腹がゆったりする。

ときどき何かの拍子に胸を震わせるような特別な瞬間が訪れると、このこれこそが本当の時間なんだって思うけど、いつものぼんやりとした生活に戻ると、これはこれで本当だよな、とも思う。

いつだって世の中では暴力の気配が高まってるけど。今日は街でチンピラとヒマそうなおっさんの喧嘩を見ました。どちらも怯えながら威嚇しつつ、落とし所を探る感じで。見栄を保ちつつ直接攻撃を回避するのは文化的だなと思ったけど、じゃあなんの為にアヤつ…

三、四年ぶりに自炊した。適当に煮物作ったらびっくりするほど美味かったのであたし天才なんじゃないかしらと思った。口にして初めて気付いたけど、味付けが実家風っつーか、いわゆるオフクロの味になっててびっくりした。母親は料理が生きがいで腕前が軽く…

パルティータ1番。 ずっとグールド先生で聴いてたけど、この人の音はさらに優しく。続き(サラバンド)を聴きたいのに、タワレコにもどこにもないよー。

なんとなく、部屋に花とか飾りたい。だってあたしのアパートったら日あたり悪くて、昼間でもどんよりしてるんですから!でも花屋なんてほとんど行ったことないから、たぶん挙動不審になってしまうな。。

 ひまなので

気、魂、心、意識、精神、プネウマ、スピリット、ハート、アニマ、ガイスト、ゼーレ、感情、おもい、気持ち、精、神、魂魄、ソウル、心気、生気、ヴァイブス、自我、無意識、セルフ、動物磁気、人体放射能、マインド、えーっと、えーっと、その他いろいろい…

今日はいい酒だった。やっぱサシが好き。

呼吸法って、ゲニウス・ロキではないけれど、場所の気、との感応だと思った。都内にいる時は神社と通勤電車でよく呼吸で遊ぶ。おれの好きなうさんくさいジャンルでは呼吸と宇宙の話がよくセットになって語られるけど、呼吸法はむしろもっとローカルな技法だ…

実家裏の海辺を散歩してて、空気がおいしいので自然に呼吸法で遊ぶ。潮の香りを芯まで吸い込む。体がやっと夏に追いついた感じがした。

夜明けの聖堂のような静謐な美しさ。おっさんマザー○ァッカーとか叫んでるけど。でも。

弱いのは鈍いから。もっと繊細にならなきゃ強くなれない。

最近すごくぼんやりしてる。どんどん取り残されていくようでもあり、本来の自分に戻ったようでもあり。

「らっしゃーーい!!!」「ありやとやしたーーーァ!!!」よく行く立ち食いそばやのオヤジは気合いのキレが素晴らしい。小柄な体から炸裂する無双の気迫に日本文化の神髄を見る。味はふつう。

時々いる、隅の方で静かに輝いてる人。人間の魅力ってほんとうに不思議だ。

「月曜の午前はまだ日曜」「金曜の午後はもう土曜」というおれ理論を敷衍すれば今日なんかまだ連休。出勤したけど。休み前に途中までやってた仕事の中身がもはや理解できなくて、あらやだこの子だれかしらーとか言いながら一日過ごした。凡ミスまつりだった。

両親が鞄を買ってやるというので*1、お言葉に甘えてデパートで適当に探したら、むかし父に贈った財布と同じブランドだったそうな。おれはそういうの知らないのでいつもふらふら何となく選んでいるけど、自分でも気付かない好みってあるのねー。 *1:現在愛用…

お香というものを焚いてみる。いくつか試してみたけど、薔薇の香りが優しくてよい。なにこの乙女らしさ…

Don't think. Feel.

酢豚って、いつ食べても、おいしいのか、へんてこな味なのか判じかねて、身動きがとれなくなってしまう。

山手線の上の方、駒込駅で初めて降りた。坂が多くてアパートが斜面に密集してて、なんかもっさりした場所。ひょっとしてまだ昭和?好きになりそうだなあ、この町。

夜に食パン食うととてもかなしい。思い込みの生き物だね。

健康と元気はたぶん違う。場合によってはだいぶ違う。

ちいさな偶然とかがきっかけで、過去の自分と回路がつながったような気になる瞬間。後ろ向きかもしれないけれど、少し回復する。

ときどき聴いて、軽く法悦。いつ聴いても感じるのは「巫」。憑かれておるのか。歌詞はお花畑過ぎて、おじちゃんああそうとしか思えないけど、お金のことばかり考えている自分の中の薄い瘴気は、他人様の純度の高い精神にさらしてたまには日干ししないとな。…

「聴く」というのはおれの場合は自分を隠すとか消すためにとる態度であるような気がするけど、ほんとうに「聴く」ってのは、どうもそういうのとは違うよう。

ささやかでもいいから望みを抱いていると、形を成すものがある。

声って、たぶん、人間の完成度のようなものを乗せてるよ。

いちど口に出して、誰かの「ふんふん」を通過して、もっぺん自分の内に戻ってきたら、そこで初めて言葉が自分のものになった気がする。

上野の国立博物館の一階隅の常設展、ほとんど人気のない考古学コーナーにひっそりたたずむ埴輪たち。その中の、「オマエ、これ作ったやつ、ちょっと犬に失礼だろ…」つーぐらい晴れ渡るようなバカづらの犬の埴輪のことを時々ふっと思い出す。あいつ、どうして…