部屋で気功してていい感じにほわーんとなってた時にアパートのチャイムが鳴り、ただのチャイムなのに隣に雷落ちたようなすさまじい衝撃を感じ、心臓止まりそうになった。さ、佐○急便めが…!(完全な言いがかり)


気功してて高まって(あるいは鎮まって)る時というのは、言語的意識がだんだん後退して、かわりに音とか光をすごく強く感じ始める。電気の灯りはなんだか刺激が強いので、できれば自然光か暗闇がよいし、冷蔵庫のモーターの音も気をとられると神経に障る。それはたぶん知覚が「開かれ」ていく過程であり、意味付けされないむき出しの世界への接近であると思うが、端的に「無防備」な状態でもあったようだ。特に音が、すげえんだほんと。「五大にみな響きあり」とはマスター・空海の言であるけど、たしかに音は存在の根底に刺さるような気もするし、たぶん音で人も殺せる。殺人音波さえあればヒョードルにだって勝てる気がする。


それでたぶん、いちいち雷が鳴るたびに死んでもいられないもので、人間は世界と意識の間に言葉で壁を作ってったんじゃないかな。*1むき出しのブツとしての世界はそれだけ破壊力に満ちていて、安易に梵我一如とか明鏡止水とかエコとかロハス〜とかほざくのも考えものだと思いました(またも言いがかりあり)。ちゃんと社会生活で要求される意識レベルや緊張感を保ちつつ、ときどき気功で静かな気持ちに沈潜する、その往復運動の振幅がきっと大切なんだろう。生活者としての自分と気功者との自分のバランスがこれからのテーマです。


でもびっくりしたからとりあえず佐○は許さん!コブラ固めくらわしちゃるって!

*1:あるいは逆に、言葉の壁で守られてきたから、壁の内側の精神が感覚に対してここまで脆弱になったのかもしれない。具体的な経緯は知らない。