帰宅途中、駅を歩いていたら、通路のど真ん中におじさんが正座してた。膝の前にじゃがりこの空のカップをちょこんと置いて、心そこにあらぬ感じで坐していた。みな一様に、何事…と訝しみつつ通り過ぎ、なんだかよくわからないままおれもそのままスルーした。後で気がついたのだけど、ひょっとしておじさんは物乞いをしていたのではないだろうか。

日本は、これからは落ちてくだけだと思うけど、それでも今のところ豊かさの名残りが残響してるし、たとえ路上で暮らすことになっても、がんばればどこかで食べ物は調達できるようである。そういうこともあって、物を乞うという行為が意識や行動の前面にはなかなか出にくいのかもしれないが、それでもその行為は、人類の歴史の中で考えたらけっこう普遍的な現象だと思う。なので、駅でその光景を見たとき、なんでその可能性に思い至らなかったのか、ちょっと自分の常識を疑う。

あと、たとえ今日のおじさんの行為がそれであったとして、じゃあおれや他の人がすぐに手を差し伸べるかというと、そこはまた、いろんな問題があると思う。むかしは知らんけど、少なくともいまの日本には「喜捨」の通念はない。てかむしろ、施すこという行為全般が「やっちゃいけないこと」あるいは譲歩しても「好ましくないこと」の側に分類されてるような気もする。上から目線はだめ、とか、相手の為にならないから、とか、うつくしい理由はいっぱい用意されているけど。ただ、いざ自分がにっちもさっちもいかなくなって、それでも火急の日銭を要する立場になったとしたら、そんなうつくしい無関心に何か救われるものだろうか、と思う。

小学校から現在の勤め先に至るまで、集団という集団において、常に端っこの方でふらふらせざるを得なかったおれとしては、たとえばリストラやなんかで最初に切られるタイプであるのは自覚していて、だから、隅の方で息を殺して生きてる人たちが自分とは違う世界の人間だとは、なかなか思えないまま、明日も電車。