どんなに真摯な文章や生き方を目の当たりにしても、本質的なレベルでは自分は全く心を動かされていないのではないか、とか考えると寒々しい。必要なのはひとり動じない心などではなく、ふるふるとむき出しの、ある種の過敏さなんだろか、とかなんとか。世界に左右されない心というのは、なにかを維持するものではあっても、生を賦活するものではたぶんないよね。


まあ心つーか人格に本質的なコアのようなものを想定することがそもそも妥当じゃないのかもしれんけど。ゆらぎうつろい現象し続ける表面だけが心のすべてさベイベーって割り切れれば、涅槃の一歩手前だね。