こんにちは

昨年から定時で仕事が終わることが多くなってしまい(残業好き)、なんとなく家帰って自炊する習慣がついた。

料理のことを知らないので人に教えてもらうのだが、気のせいか、そういう質問をするといつもより女性がやさしく応じてくれるように思う(「炒めものに豆腐ぶち込んだらべちゃべちゃになりました」「あなた水切りしてないの」)(「ピーマン切ったら種が入っててびびりましたが奇形ですか」「もう一度生まれ直してがんばってね」)。

一年ほど男メシ作り続けてみて最近気が付いたのだけれど、食べてもらう相手に多少なりとも愛着を感じていなければまともな料理は成立しないとするならば、外食できる時にわざわざ家帰って自炊するという行為には、どこかセラピーとしての一面があると思う。

田舎に帰っていた。友人と公園で会う約束をして、行ってみると、ベンチでのんびり趣味の楽器を弾いているそいつの隣に、小さな女の子が座って耳を澄ませている。おれが友人と挨拶してるうちにその子はとことこどこかに行ってしまって、親戚の子?と訊いてみると「知らん子」と。両者まことに無造作でいい。東京とはずいぶん違うと思ったけれど、それだけおれも外の人になってしまったのだろうか。

五ヵ月目の妊婦さんのお腹に触らせてもらった。「こんにちは」って気を込めて触れてたら「こんにちは」ってキック返してくれて、こういうの初めてだったので少しうろたえてしまった。「カワイイ〜、感動〜」っていうより、なにかひたすらよく判らない感じで、もともと知り合いだったその妊婦さんも、なんだか遠い人みたい。だってお腹の中に誰かいるんだよ。

人は聡明になればなるほど、明るさを増す。みたいなことを中島らもが何かに書いていて、ずっと昔それを読んだ時に意味がよくわからなかった。頭のよさそうな人たちは、自分たち凡人と比べると、多かれ少なかれみなさん暗黒世界を生きているように見えたものだし。でもきっとそんなに難しい理屈ではなく、自分で自分の生命力を損なうような思考法を好んで採る必要はないよ、ぐらいの意味だったのかもしれない。今日は激しく二日酔いで、今、少し、闇の世界。

なにかの考え方なり思想なりをいいなあと思ってただ頭で理解している段階と、本当にそれを体で身につけていることは違う。みたいなことを、さも判ったような顔してさんざん言ったり書いたりしてきた覚えがあるけれど、その「頭でわかっただけじゃだめ」という意見そのものが、単に頭でわかっていたに過ぎなかったということが、よくわかった。本当のことは本当の瞬間にしかわからないし、その時あらわになる自分の姿が、あれほど憧れていた思想がまったく腹に落ちていない不甲斐ないものであることを、またこれから何度でもそういう姿に直面するであろう可能性を、おれはもう自分自身に否定するつもりはない。

ということを書くとじゃあそんな思想は捨ててしまえとか、話はそういうことではなく。。たとえば自分の場合はかなり昔に、時間の使い方というか行動の方向性のようなものを「本を読むこと」「体術を修めること」のふたつにとりあえず絞ってしまっていて、それはずいぶん自己の気質にあっていたので漠然とそのように生きてきたけど、たとえばなにか本を読んで「かっこいいな」と思う行動様式を見つけたとして、それを会得していくことは、これも、ひとつの「体術」であると、そんなふうに今は思う。

なにかを身につけようと長期的に訓練した経験のある人はわかると思うけど、それは大小の挫折の連続と稀にあるささやかな達成の、終わりのない過程であり、たぶんその簡単にいかなさこそが体術の喜びでもある。「本を読むこと」も「体術を修めること」も、すこしずつ自分のなかでひとつの場所に収斂してきて、おれはもう、これ以上じぶんのかっこわるさを知ったところで、かんたんにあきらめたりはしないよ。という、ポジがネガかわからない話。

本当のことはなかなか言葉にできないなあと痛感する。機を逸して、じゃあさようならと言うたびに、伝え損なったことを後悔する。
みたいな話をすると、ああ色恋のことですねはいはいつらいですねそうですね、としか思わない方は相当重症であらせられるので、『空手バカ一代』でも読んで精神の浄化に励んでください。そんなこと以外にも真実の瞬間はいっぱいあるし、そういう個々の一瞬をできれば丁寧に経ていきたい。