なにかの考え方なり思想なりをいいなあと思ってただ頭で理解している段階と、本当にそれを体で身につけていることは違う。みたいなことを、さも判ったような顔してさんざん言ったり書いたりしてきた覚えがあるけれど、その「頭でわかっただけじゃだめ」という意見そのものが、単に頭でわかっていたに過ぎなかったということが、よくわかった。本当のことは本当の瞬間にしかわからないし、その時あらわになる自分の姿が、あれほど憧れていた思想がまったく腹に落ちていない不甲斐ないものであることを、またこれから何度でもそういう姿に直面するであろう可能性を、おれはもう自分自身に否定するつもりはない。

ということを書くとじゃあそんな思想は捨ててしまえとか、話はそういうことではなく。。たとえば自分の場合はかなり昔に、時間の使い方というか行動の方向性のようなものを「本を読むこと」「体術を修めること」のふたつにとりあえず絞ってしまっていて、それはずいぶん自己の気質にあっていたので漠然とそのように生きてきたけど、たとえばなにか本を読んで「かっこいいな」と思う行動様式を見つけたとして、それを会得していくことは、これも、ひとつの「体術」であると、そんなふうに今は思う。

なにかを身につけようと長期的に訓練した経験のある人はわかると思うけど、それは大小の挫折の連続と稀にあるささやかな達成の、終わりのない過程であり、たぶんその簡単にいかなさこそが体術の喜びでもある。「本を読むこと」も「体術を修めること」も、すこしずつ自分のなかでひとつの場所に収斂してきて、おれはもう、これ以上じぶんのかっこわるさを知ったところで、かんたんにあきらめたりはしないよ。という、ポジがネガかわからない話。